こんなことをいうと語弊を招きかねなのですが……敢えていいたい(笑)
わたしにとって、「読書会」と「タロット」でやることは、ほとんど同じです。
<意識できないものを拾う>
自分ひとりの頭ではなかなか気づくことができないことを、本の言葉や自分以外の誰かの言葉、あるいは、タロットという象徴を使って、無意識から引き出してくる。
そんなことをしています。
アヤシイ?!
いやっ!!
大真面目に……アヤシクナイ!! デスよー。
なぜ「アヤシクナイ!」っているのかって??
それは、見えない・聞こえない・触れられないものは、得てして奇妙だし不安だし……
しかもそういうものを、見よう、とか、聞こう、とか、触れよう、とすると……
生命維持を守ってくれている脳みそが、「変なものは勘弁してー」って自動的に「アヤシイから排除」としているだけ、というのがわかるから。
屁理屈は並べられるけど、科学的根拠になる数字は持っていないけど……
でも、「これ好き!」と思うようになるのと一緒だから、「わかる」と断言してミマシタ。
ちなみに、読書会で得られる「気づき」は、本から得られることでもあったり、誰かと話すことで得られることであったり様々です。
読書会の参加者さんから
「自分ひとりの頭では出なかっただろうなぁ、という気づきがあってオモシロイですね!」
といわれるたびに、嬉しくなります。
なぜ、意識できないものを拾うといいの?
それには「アイデアを生み出す」ことに関係してきます。
「アイデア」といえばジェームス.W.ヤング。
ヤングの「アイデアのつくり方」でいうように、たしかに、既知と既知とを組み合わせて新しいものは出来上がります。
組み合わせる「既知」が異質なもの同士であればあるほど……できあがる「アイデア」も斬新であることは、たくさんの人に知られています。
でも、いつも思うのです。
だったら、たくさんの「既知」を持っていないと「おもしろいアイデア」って生まれないよなー、と。
じゃぁ、いろんな経験をすればいいじゃないか! といわれそうですが……ひと一人ができる時間は有限だし、どの程度をもって「いろんな」というかも曖昧。
だったら、手っ取り早 有限のなかで効率的にいろんな経験を得るにはどうしたらいいか? と考えて出てきたのが……
意識できないものを拾える、読書会とタロットだったわけです。
読書会は、本を扱います。
本は、それを書いた人の脳みその一部を間借りできる優れもの。
しかも読書会は「会」だから、かならず1人以上は、自分以外の誰かの意見を取り込めます。
タロットは……見えないものを拾える道具。
タロットに描かれている図像や数字を参考にするとしても、五感をフルに活用させて第六感を刺激するような道具です。
五感よりも広い世界である第六感から情報を得るのですから……その情報を取り込んだなら視野が広がることは当然です。
ちなみに、わたしの読書会はタロット風味がついている。
五感が冴えるように設計していマス!!
思考の枠から、はみだしてみるのも悪くない
思考の枠内で考えている方が楽なこともあります。
あれやこれやと頭で考えていた方が、忙しくしている自分に酔えるから。
忙しくしていた方が、面倒くさい感情を感じなくて済むでしょ?
ここで止まってしまうと商売がうまくいなくなるんじゃないか? と不安になることも避けられるし、頭を忙しくしていた方が葛藤からも逃げられる。
だから、考えよう、考えようとして……頭を使ってしまう。
誤解なきように。
けっして「考えるな!」と言いたいのではありません。
ただ……考える方が多いなら、ちょっとそこから離れて、感じてみようよ、と思うだけです。
思考停止になる前に。
頭で考えているばかりだと……ほんまに大事なもんがある日突然なくなるよ、とさえ思ってしまう。
面倒くさい感情も嫌だなぁと思う感情も感じてあげないと、その反対の「嬉しい!」「楽しい!」が分からなくなってしまうから。
右があるから「左」が分かるのと同じで、「嫌だなぁ」があるから「好きだー!」も分かるようになるわけで……
だから、ちょっと息を抜いてみぃー。
思考の枠から離れるには、息を抜いて吸う。
内臓を意識して
空気が体から抜ける触感を味わうように
空気が体に入る触感を楽しむように
それを、ただ繰り返すだけで、十分です。
もちろん!
読書会は、自分の思考の枠から出るにはええのよー。
人の脳を間借りできるし
自分の思考の枠からは気づけないものに気づけるし
五感を刺激するし
体験してみてー
「感じる」って「考える」より……大変なんだ、というお話
ここからは蛇足です。
わたしも実験中の身ではありますが……
考えるよりも、「感じる」ほう大変です。
なぜかって??
「考える」って、記憶と経験を参照すればいいから。
既に頭の引き出しにある記憶と経験を繋ぎ合わせるのが、わたしの「考える」という作業。
でも「感じる」は、頭の中に記憶も経験もない、「今ここ」でしか味わえない世界です。
大好物の松村先生の著書「魂をもっと自由にするタロットリーディング」の一節に<「考える」ことと「感じる」こと><連想イメージの落とし穴>という二つの項目があります。
ここに
感じることというのは、イメージの展開するままにというふうに思う人が多いでしょうが、実は、感じることと、自由連想的なイメージを広がることは、正反対の働きであることに注意しましょう。
誰でも幼少期から、その印象がどんどん記憶の中にストックされていきます。目の前の現実に触れた瞬間、一瞬受け取った印象がこの記憶を刺激し、同時に人間の意識は閉じていき、その後自動的に現実とは無関係に印象や考え事が展開される精神活動が始まります。これが連想です。
とあります。
つまり、イメージを連想することさえ「考えた結果」であり、記憶と経験の参照であるといえるのです。
少なくとも、記憶と経験の参照ではないことだけは、確か。
でも、脳みそにある記憶と経験をよみがえらせないって……
もはや「感じる」って……となるわけですが(笑)
ただ、「タロット」で練習できるよ、と松村先生。
ですから、目下、「感じる」ことの練習中なのですが……練習仲間も募集してますー
いっしょに「感じる」を研ぎませんか?
3月31日の日曜日。
あかりばcaféでお待ちしています!!
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